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こんにちは!
今日はブログ開設の初記事ということで、誰にでもある生い立ちを書いていこうかなと思っています。
まぁ一個人の生い立ちなんて誰も興味ないと思うけど、何かのヒントや共感に繋がればいいかなぁなんて気軽な気持ちで書いてみようと思う。
優劣に気づいた小中学生時代
こんな僕でさえ小学校や中学校では当たり前に人と絡んで友人たちとも遊んでいた。ただ学校以外の活動としては、幼少期からの趣味というか変な行動癖があって、一人で川へ遊びに行くことが多かった。
都会育ちだったせいか、僕は川に限らず自然の中で時間を過ごすことが自分の癒しになっていたのかもしれない。もちろん川べりにぼーっとしているわけではなく、たいていは釣りしたり夏であれば泳いだり、一人BBQなどもしていた。自然の中には今でもワクワクすることがたくさん潜んでいる。
小学校高学年からは一人の友人と気が合い二人で遠出するようになったが、その友人とは今でも仲がいい。中学生になってもその活動はなおも衰えず、自転車で群馬県まで行くという目標を達成し、毎週休みとなれば遠くに出かけていた。
しかし中学2年になる頃、1年生に入部した卓球部を辞めることを決意。偏見だけど、卓球部は男子部員だけでとてもむさ苦しかった。もちろん卓球というスポーツ自体は今でも好きなんだけど、、当時は思春期の一歩手前、『卓球部ではモテない・・・』それが僕の出した浅はかな答えだった。
それからまったく縁のないバスケ部に入り、その中の友人たちと同じ塾に通い始めるも…形だけの僕は文武両道という晴れ舞台に登ることはなかった。部活は二軍だし、塾では最下位レベル。
スラムダンクに憧れたが最後、現実は他校遠征で弁当を食べる瞬間の高揚感を味わいに行っていたようなものだ。
塾もただの塾ではなく、毎年名門校への合格者を輩出する優秀な進学塾だった。強烈なスパルタ教育が有名で、勉強の出来ない僕にとってはすぐに恐怖の場所となった。特に合宿のとき80人近くの生徒の前で立たされて、説教されたのは成績以前に人格否定をされたようで堪えた。
部活は一応引退まで弁当を楽しみに、塾は中3の秋に挫折して逃げ出した。
「今頑張らない奴は一生社会の落ちこぼれになる」これが講師からの最後の言葉だった。
思い返せばこの頃から人との比較が始まって、また現実的に優劣が生じてきたのかもしれない。比較する度に月並みさえほど遠いのかと、鬱々としていたのを覚えている。
なにか秀でるものさえあれば・・・いつもそんなことを考えていたが、周りの目を気にする僕に実行する行動力はなかった。
再起を図るために高校デビュー
高校に行くと性懲りもなくバスケ部に入るが、体育科と普通科の歪みは大きく、明らかないじめが始まった。僕の携帯の電話帳に入ってる女子に電話やメールで卑猥な言葉を送ったり、財布を盗まれたり、練習中ボール運びだけをやらされるようになった僕は3ヶ月で退部した。
体育科は部活を続けるという成約のもと、満たない偏差値で入学してきているから、そこに軋轢というか自由時間がないゆえの嫉妬のようなものがあったんだろう。しかし20人はいたであろう部員は引退シーズンには5人しか残っていなかった。
退部してからは校則でNGとされていたアルバイトを始めてみた。
部活を辞めて時間ができたことで、クラスの友達とも親しくなりバイトしては遊んでの繰り返しだった。この頃のバイトはかなりゆるくて非常にやりやすかった思い出がある。
しかし進級時のクラス替えや退学処分によって親しい友達は離れてしまった。いろいろと調子に乗っていた僕は新クラスで浮いた存在になり、男女間のもつれも相まってかなりイタいキャラへと変貌していた。
受験シーズン、勉強はおろか既に学業自体に興味がなくなっていたためか、担任からは進学を諦めろと言われる。因みにこの担任は辞めた部活の顧問だった。僕は調理経験を活かして、調理師の専門学校に通いたいと親に言うものの、、親は大学へ行けの一点張りだった。
大学にさえ行けば一生安泰というイメージが強かった当時、親がそういうのも無理ないだろう。特に親は高卒で苦労したと言わんばかりだったが、実はそっち(レールからはずれた道)の生き方のほうに共感できたのはつい最近だ。
仕方なく自分で入れそうな大学を訪ねてみることに。昔から環境についての興味が強く、大学は環境系のことを学べるところに受験した。AO入試で多摩川の水質をエリアごとに測定してプレゼンするとあっさり合格。あらためて偏差値のありかたについて考えさせられた。
『さぁ夢にまで見たキャンパスライフ!モラトリアムを有意義に過ごそう!!』
大学入学が決まった僕の春休みといえば、GTOとウエストゲートパークをひたすら見て得も知れぬ期待感に燃えていた。
『次こそは輝けるイケイケでリア充な人生を送ってやる』←バカw
再起を図るために四流大学へ進学
四流大学という時点で再起は図れないのだが、、入学式はなめられてはいけない。
このときの僕は頭が相当イッてしまっていたらしく、ど派手なバイクと格好で入学式へ乗り付けた。当時でいえばメンズエッグのギャル男さながらに。
もちろん僕はイケイケのグループに入った。ついでにサークルなんかも入ってパーリーピーポーにさえなれば何かが達成できると信じていた。この辺りはおやすみプンプンを連想するw
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しかし、現実的には太った黒豚が調子に乗っていただけのことで、またイタイキャラだということに気づいてしまった。この時点で僕は学習能力ゼロだ。
『やめよう。こんな身丈の合わないハリボテのような生活は』
2年生からはイケイケグループから逃亡、ファッションもガラッと変えて、気軽に付き合えるグループと行動をともにするようになった。まぁ居心地はとても良かったけど、刺激という点においては皆無だった。
大学生活後半から地元の居酒屋で働き始めて、バイトメンバーと夜明けまで飲んだり遊んだりしていた。とにかくバイトが楽しかったからシフトを入れまくったら給与が25万超えたときがあったのだけど、あれにはさすがに驚いた。
もはや学生がする労働量ではなかった気がする。当然大学は行ったり行かなかったりで単位を落として留年。。さすがにこのときだけはシフトを減らしてA+をとるべく奮闘した。
勉強が楽しいなと気づき始めた半年を経て、ついには就活シーズンが来てしまう。
周りの留年組がぼちぼち決まっていく中で、僕は遅めの就活をスタートさせた。しかし2008年に起きたリーマン・ショックの余波がまだまだ続いていた当時、何十社に応募しても書類で落とされ一向に内定の気配はなかった。それどころか、既に内定を貰っていた同期の中から今では考えられない「内定取り消し」が続出していた。
この緊迫がさらに状況を追い詰め、とりあえず環境系とか言ってられなくなった僕は手当たり次第にエントリーを開始した。
あっけなく終わった大学と就活という儀式の始まり
就活の最中、東京ビックサイトの合同説明会にいく。
そこには皆同じ服、同じ髪型をした就活生がずらりと並んでいた。大学卒業と同時に就職するということにこの時初めて疑問を感じたけど、その流れに逆らうことはできなかった。
なぜなら僕は、いや多くの人もそうかもしれないけど、僕たち四流大卒者は問答無用で就活という選択肢しかイメージできなかった。今でいうオンラインサロンや起業家のなんちゃらという情報も一切降りてこなかった当時、卒業と就職は同義だった。
大卒当時、僕のちっぽけな脳みそで理解したのは以下のような当たり前の社会システムだ。
資本主義である日本の教育システムはすべてが競争するように作られている
親世代は大学進学さえすれば一生安泰というバブル脳が未だにこびりついている
個の尊重などではなく、あくまで全体主義
どんな他の得意分野があっても文部省の決められた3~5教科、もしくはスポーツの能力でしか評価されない
周りの行動に合わせられない=社会不適合者
このレールから外れれば、今度は再起など図れるはずもない。
「今頑張らない奴は一生社会の落ちこぼれになる」という塾講師の言葉を思い出した。
僕たちはなにかの組織に与していなければ存在の証明ができない(当時はそう思っていた)だから学生や社会人という区分が設けられている中で自分の立ち位置を見つけて属さなければならない。そう盲信していた。
ベルトコンベアー式に義務教育~就職まで1年たりとも隙をつくることなく僕たちは何かしらの教育機関に属している。そんな僕達が受ける個性を排除されたフラットな教育は、明らかに従順無垢な労働者を生産する為のものに過ぎない。
もちろんそれが自分に当てはまって、しっかりと社会人生活を歩んでいる人も多い。本当はそういう人生を望んでいたのかもしれないが、新入社員となった僕に待ってたのは想像を超えた一方的な洗脳であった。

初公開日時: 2017年8月2日リライト公開日時:2018年9月26日
https://dropout-minimalist.com/2017/08/13/しくじり人生②