みなさんほあよー。
今日はなんだかんだ理由つけて仕事を休んじまった。
だめだ。つくづくやる気がでない。
周期的に訪れるこの突発的な発作のために社会から著しく信用を失ってきたありーゔぇでるちだけに今日はその原因を考えてみようと思う。
お、というかすこぶる久々にブログ書いてるな。
最近はずっとイラスト描くのに傾倒してたせいか、キーボードに多少の違和感を感じるぞ。
実は小学校のときに漫画部に所属してて、中1の頃は卓球部という、ザ・漫研的な要素十分だった僕です。
まぁ偏見承知で書くと、じめ~っとした印象が濃厚なこのクラスタにいてはモテない。
思春期というのはそういった薄っぺらな見栄によって実は好きだったコトを置き去りにしていくのかもしれない。
実際に中2でバスケ部に鞍替えしたところで、
スラムダンクをかじり読みして髪型を山王工業の沢北にしたところで、
結局は上には上がいまくるわけで・・・
スタメン補欠の僕は引退直前になると半ば弁当を食べて談笑するために部活に行っていた。
バスケ部と進学塾に通う自分は以前のクラスタ(漫研卓球)に比べて、まぁまぁそこそこだといつも思っていたけど、どっちもケツから数えたほうが早く、決してモテることもなかった。
このころからどんどん自分の中の創造性を失い、現実の環境に適応すべく今風を追いかけてはじめた。
それは昔の陰鬱(と思い込んでいた)なクラスタと決別して、現実でのリア充を追い求める自分がなにより進んでいる気がしたから。
しかしもとのキャラ設定はかなり孤独で我が強いために、今風に慣れることは絶対になかった。
いつももう一人の自分が冷めた視線を送ってくるのを時折感じてしまうことがある。
偽ってなりすましていた、という表現がしっくりくると思う。
でもそのなりすましはもとの系統から逸脱しているために、かなりの労力を消費してしまう。
ふつうの人の何気ない会話が10だとすると、コミュ障の人のそれは100に匹敵する、といったところか。
持続することは困難だった。
それでも見様見真似でつくり上げた虚栄の自分は高校~大学にかけて恋愛をしまくったよ。
そりゃもう当たってくだけろ的な捨て身でね。
誰だかの思想家いわく、勝利の女神は果敢なものに微笑むと言ったらしいが、まさにそれは当たっている。
押しが強い人は例え容姿がどうあれ意外と恋多き人が多いというのはなんとなく想像できると思う。
それが果敢なのか貪欲なのか知らんけどもおそらく後者でしょうな。
まぁそういった諸々がですね、、
このフレッシュネスな季節になると気温とともに様々な高揚感の思念をはらんだ桜が街を浮き足立たせるわけで。
期待と不安に煽られて、しかしそれをも高揚感というマジョリティの渦に飲まれ雑踏に消えていく。
それが春なのだ。
アタラシイ門出という大義名分に浮かれてしまうこともあるでしょうね。
そんな有象無象が眩しく感じてたまらなくなるとき、僕はあえて陰に入るのかもしれない。
陽に転じることもあるかもしれないけど、今は少なくとも高揚感の雑踏にでるにはあまりにも無防備ということだ。
昔はよかったとか、あの頃に戻りたいとは一切思っていないけど、過去の光に現在の影が照らされることで少々憂鬱になるときもある。
春の倦怠感の原因はおそらくこういったところにあるんだろう。
誰もが期待に溢れてるわけではない。
門出もなにもなく変化のない日常にフラストレーションがたまる日もあるでしょう。
そんな眩しいときは自分と見つめ合う時間を作って、本来の姿を掘ってみるのもいいかもしれないね。
数年前に偽りから解けた自分がしたことは偽りによってできたすべて、即ち会社や友人の断捨離、家族との適切な距離を保つことだった。
そして今は漫研クラスタだったころの自分を呼び出して、温泉で卓球でもやりたいなと思っている。
本来の自分を再確認するために。
そういう意味ではアタラシイ門出は、入学卒業新入社員じゃなくても平等になにかをもたらすのかもしれないね。
おわり
コメントを残す