ココ最近、働いてるか寝てる記憶しかございません。
やらないといけない、、というのはたとえ自分が意図したことであっても辛いですね。
そういえば先日アドセンスから手紙がきて、ようやくPINコードが届いた。
たとえサーバーの容量を無駄遣いしているブログ、、と揶揄されても僕は嬉しいです。
アドセンスからのお手紙、、2年かけてヘタレブログの収益が1000円超えたようだ。
嬉しいなー、この重みだけはいっちょ前に理解できる。
読んでくれてる人へ、ありがとうございます。 pic.twitter.com/zIu3zvA9VU
— ありーゔぇでるち@低浮上 (@quartet1115) February 8, 2019
これからも書いていこうという意思が芽生えたので、ただありがとうといいたいです。
そういえば今日取材だったんだけどしばらくできなかった通販の仕事がたまって店に行けなかった。
まぁ連日の疲れもあったので、意図的ではある。
代わりに行った彼女が映ってればおもしろいんですがね。
— ありーゔぇでるち@低浮上 (@quartet1115) February 6, 2019
あとは店に取材が入ってですね、、これがとても疲れたのですが、守秘義務が課せられているので、書けないけど放送前日はつぶやくので、興味のある方はみて頂けると。
ちなみに僕はTwitterにも書いてあるとおり逃げたのでいませんw
しかしまぁなんでこんなに疲れてしまうのか、、物理的な要因と労働時間であることは間違いないしそれを改善できるけども、今は状況が許さない。
それを改善できるのは少なくとも2年後になるだろう。
親と話し合った結果なので仕方ない。
この件について相談に乗ってくれた方々には感謝しています。
内容はどうあれ、自分の気持を強くプッシュできたのには変わりないし、しっかりインセンティブをもらうことができました。親から搾取www
しかし、それとは別に精神世界の負担について、僕はとうとう気づいてしまった。
厨房の奥には、ブチャラティのようになって死んでるのに生きてる親父の亡霊がいるということ。
いやそれをいうとアトム・ハート・ファーザーという吉良吉廣(通称吉良の親父)のほうが当てはまるだろう。
写真の隅に座ってるあのオヤジだ。

厨房の奥には小さな折りたたみの椅子がある。
それは数十年間親父が座り続けていたこともあり、椅子に記憶が宿っているのかもしれない。
かれこれ8ヶ月、私もあの椅子に座っている。
そして最近、段々とわかってきてしまった。
なぜ親父が認知症を発症し、脳梗塞で倒れてしまったのか。
年齢だから、そういう病気だから、という一言でも終わらせることができるけど、そこはあえて深い考察が必要だと思う。
なぜって、、それはいつか僕にも降りかかることだろう?
あの厨房は思い出深いものがありながら、同時にそこに縛り付ける牢獄でもあるのだ。
小さな空間に毎日毎日立ち続けて、碇シンジのように目標をセンターに入れてスイッチという作業を繰り返していた。

その結果、なにが起こったのか。
僕はそれを極度な過労による脳の衰退だと思っている。
脳の中にはいろいろな役割を司る部位があるけど、なかには使わないと萎縮していくものがあって、多分『記憶』『思考』の欠如がそれに当たるものだろう。
まぁ仕事なんて言うのはたいていの場合は年数こなしてるとルーチンになっていくものだけど、それでも些細な変化は日々あるだろう。
自分の職業経験上では少なくともまったく緊張感がない仕事なんてのはお目にかかったことがない。
だけど店でしている調理という仕事は、毎日毎日すべて同じ動作といっても過言ではない。
作るものも、見るものも、お客さんも、窓からの景色も、料理のにおいも、流れるBGMも。
ただただ変化のない日常。
これがまだ発症はしていないけど、軽度な症状がある未病状態を生み出した原因だ。
労働時間を短縮した両親とはいえまだ仕事をしているから、僕はそれに比べれば6割くらいの負荷で済んでいる…
ハズである。
だけど、その環境下にいるともれなく椅子の記憶を通して重い何かが伝わってくるのだ。
僕は思った、、その椅子、
いや、その空間に長時間いるのは危険だということ。
これは20余年ほど前、まだ店が開店して間もないころの話だが、とにかく地域性が偏見に満ちていた。
店を休めば嫌味ややっかみを言われ、町内会の意向に背けば即座に村八分で営業妨害もありえたと。
そりゃあもうあの地域に入った当初は、借りてきた猫のように静かに振る舞い、周囲の言うことにはイエスマンしかありえなかったと。
だから、親は今でも絶対的に店を休みにしない。
おそらくその頃のトラウマが続いているのだろう。
旅行に行っても表面は法事だとか本家の人間が入院したとか、とにかくそういった嘘をつかなければならない。
非常に粘着質な地域、、だった。
まぁもっとも2019年の現在においてもうそれはほとんど解消されてきたように思う。
以前、地主が僕にやっかみを言ってきたことはあったけど、そやつはワイの権限で出禁にしてやった。
今は周りも二代目や若い新興勢力が入ってきたこともあって、だんだんと旧勢力は年齢に抗えず衰えてきたんだろう。
悪いが言いたいことは言わせてもらう。
くそったれの老害共め、
話はもとに戻るが、そういった地域絡みの要因で、自営業にもかかわらず半ば長時間休みなしの労働を強いられてきた。
もっとも親世代の物欲を考えれば、自らそういった方向に転換して消費し続けることで自分たちを満たしていたのかもしれない。
あれだけの時間働いてたら消費しなければ気が済まんだろうということはよく分かる。
どちらにせよ、自分は
この旧システムを継承する気はさらさらない
完全に働かないとは言わないけど、ルーチンをこなすだけで一日の大半を失うのは御免だと言っている。
それは地域とか親とかそういう問題ではない。
よく、人間はなんのために働くのか。
面接においてなんで弊社に応募したのか。
それは資本が資本足り得る資本主義の世の中に生きているからであり、、
お金が大事なのは資本(金)主義だから、、に尽きる。
我々人類は皆資本の奴隷なのだよ。

だから志望動機もくそもなくて、、生きるために、、呼吸するために、、
必要だから。
に過ぎない。
じゃきゃ金など糞拭いて便器に流してくれよう。
で、生きるために必要なもののために生きることそのものが仕事になるってのはどういうわけなのかって話だ。
生きる=働くだけなら、それは死んだほうが、、いや、生まれる意味さえない。
労働というのは人類だけが生み出したシステムで、蟻のように本能だけで働くわけではない、感情や理性がある人間だからこそ辛い。
システムを生み出したやつのために、勝手にそのゲームに強制参加させられるクソゲーでしかない。
革命なしの大貧民を八切りなしの10以下の数字で戦えといってるようなもの。
ふんっ、付き合ってられるか。
これが僕の労働に対する持論で死ぬまで崩すつもりはない。
だから、アンフェアなマキシマム労働はしたくない。
そこまでして得ようというものもないし、、あるならそれは金では買えない
時間
だけじゃないか。
親は言った。
『二年で引退するからそれまでは既存のやり方でやりたい、その後は好きにしていい』
と。
主義主張はあって当然、是非もなく受け入れた。
あなたたちの店ですから。
でも本当は老後の資金がなくて何よりも目先が金に詰まってるのなら、売上をあげることすなわち効率化する、ということが至上命題なんじゃないかなと僕は思っていた。
それを捨ててでも既存のやり方を貫きたいのは人の情というものだろう。
理解できる。
自分は少したんぱくなのかもしれないとも思う。
でも、それは世代間の経済観念が違うからだ。
二年後にどうするか、、それは

ということに尽きる。
この誤字脱字だらけのDMを飛ばしてくれた人には感謝してる。
もちろん様々な意見をくれた人にも。
当面、自分の目標はこの吉良のオヤジとの精神世界における対話だろう。
なにゆえそうなったのか、どうすれば回避できてなおかつ運営に支障をきたさないか。
それを二年のうちに考えて打開する必要がある。
あとは思考停止に陥らないようなるべく多くに触れておくこと、運動すること、興味を持つことかな。
15時間も寝てしまい

という症状に陥ってからのブログだったがゆえ
いろいろ失礼仕りました。
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