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こんにちは。
2021年もあと十数日で終わりますね。
この一年はコロナ禍ということもあって、去年のままズルズルやらざるを得ない感じでした。
そこでこのタイトルを練ってたわけですが、これは今朝の神田沙也加さんの訃報に便乗するわけではありません。
まぁまったく関係がないと言えば嘘になるかと思いますが、ここ一年でいろいろと思うことがあります。
要約するとネタではない日本オワコン的な内容の記事、総じてネガティブな記事が量産されてるように思います。
SNSもそうですね。
確かに人口統計や経済的な観点でいえば未来に希望がないのは事実かもしれない。
2000年代に2ちゃんねるで言われたような「日本オワコン」といった冗談が真実味を帯びてきている。
ではなぜこの国は病むのか、自分の中ではわりとあっさり答えが出ていて、1つ目は何事にも過干渉なこと、2つ目は諦めという怠惰の拡散です。
何事にも過干渉なこと
これは一つの例として挙げたいのですが、先日、TVの取材依頼が来たんです。
それも執拗以上のアポで。
ニュース番組の報道だったので当然ながらお断りしました。
ふつうの人であれば、コロナ禍に取材受ければ売上に反映されるのになんで受けないの?ということになるでしょう。
もちろん合理的に考えればそれは真っ当な意見です。
でも僕はここ数年でまったく異なる違和感を感じています。
コロナが始まり早二年、種が滅亡するようなウイルスとはほど遠いものに対して、どれだけマスコミが煽り騒ぎ立てたことでしょうか。
長い恨みつらみは別記事にも書いたので割愛しますが、この元凶の諸悪の根源はあんた等マスコミなんだよってことです。
よくぞ一つの業界を瀕死状態に追い込んでくれました。
それで少しことが収束を見せ始めると「飲食店を取材して…」とか始めるわけです。
それも内容はお決まりのパターンで
現地報道「コロナ禍での売上はやはり厳しいのでしょうか?」
店員「変異株で忘年会も期待できません」
キャスター「そうなんですね、まだまだ厳しい状況が続きそうです…次のニュースは」
この繰り返しです。
散々煽っておいて「お気の毒ですね」という嘲笑するようなこの感じが見世物小屋に思えてなりません。
まぁ僕が思うに経費をかけてネタ探しするよりコロナの報道してたほうがコスパがいいし、既に埋まっている視聴者の「恐怖感」という関心を煽れば視聴率もストックできるというわけです。
加えてコロナ報道してるのは日常という常識にまで落とし込めば、もはやそれに恨みや疑念を抱く人はいなくなるので一石三鳥の算段ですね。
それでいて正義であるかのような報道の義務という体裁は維持できるので実に頭がいい発想です。
でも少なからずこういった報道が飲食店にかかわらず、様々な業種に影響して時にそれが人を○しているという事実があることを知ってほしい。
そしてこういったネガティブな風潮を作り出したことによって、間接的に亡くなった人も多いと思います。
- 直接的=煽りを受けた業界
- 間接的=煽りを受けた業界の放つ苦境に対する第三者による誹謗中傷、論争
SNSによる誹謗中傷こそがコロナより普遍的で危険な現代病といっても過言ではありません。
世の中には人の動向について逐一意見したいという人が一定数いるのですが、それがSNSの普及によって見える化してしまうんですよね。
そこに承認欲求やら信者ビジネス等が入ってくるとこれまた二次災害的なことになるわけです。
すべては人と人がSNSで簡単に繋がれる(もちろん良い面もあるが)総じて過干渉なことが原因だと思います。
あとはそれに付随するネットの記事ですね。
こんなブログ書いてて言うのもなんですが、あんな駄記事を世に出してる時点で民度の低下に寄与しています。
あの、至極当然なんですが、当事者には当事者なりの価値観や苦労や感情があって同じ脳ミソというOSが載ってるんですよ。
それがどういうわけかオンライン上になると相手が人形であるかのような扱いをする人がいます。
当事者以外に分かるわけがない、だから分からないことに赤の他人が賛否もクソも述べる資格はないということです。
その辺りがの感覚が少々おかしい(ただただ不快)なと思うことがあります。
これが僕のような虫けらならさておき、知名度のある方ならこの数千倍もの負担がかかるのだろうなと想像します。
一言の誹謗中傷が1000の誹謗中傷に変わったとき、相手が生きてる保障はないのかもしれません。
デジタル・デトックスという言葉はすでに浸透してるかと思いますが、最近は本当に意識的に実践するようになりました。
人間は少しデバイスとコンテンツに羨望的な依存をし過ぎて、勝手に情報過多に陥り病んでるように思います。
多分、本当はどうでもいいことのほうが多いし、その時間をもっと有意義に使えるんじゃないかなって。
諦めという怠惰の拡散
これも前述につながっている部分があると思いますが、ここ数年で価値観が変わりました。
元々、僕のブログ内容は愚痴や批判などのネガティブ方向のものが大半を占めています。
もちろん、現状の不平不満は発散しないとやっていけないということもありますが、その役目はブログではないということに気づいたのです。
少なくともオンラインに載せるべきことではないということです。
SNSもそうで最近は忙しいということもあり、ロム専的な感じで閲覧頻度も下がっています。
価値観が変化するこによって困るのは、当初のキャラ属性によってフォロー・フォロワーが構成されているということです。
まぁ学校というか地元的な要素と一緒で、同窓会とかやると元のキャラを演じなければいけないというアレです(笑)
もちろん、180度変わるということはあり得ない微々たる変化ではあるのですが、そろそろアカウントを作り直す時期なのかなと。
無職自慢してる人は理解できても共感が難しくなった
まぁ長い人生において誰でも数年のスランプというか谷みたいな部分はあるし、山にあってもまた谷が訪れてというのは普通だと思います。
実際、自分もブログやSNS始めた頃は奈落の底のような時期でしたからね。
ただ、一つの疑問がずっとあって、いつまでそんなことしてるの?ということです。
別に自分の人生ではないのでまったく関係ないのですが、それが多少なりとも不快に感じてきました。
それは僕が不平不満をブログに書き連ねていたのが、実は感情や思考を文字に起こして打開策を練るためであって、根本的な動機が諦めではなかったからです。
そして低く見積もったとはいえようやくその目標に到達することがでました。
また、少し上を一歩ずつ見失わないように継続していくことが来年の目標です。
前述した通り、確かに日本には希望が見いだせない要因はいくつもあるので、諦めて投げやりになる気持ちは想像に難くないですが、それで開き直ってどうするのか。
病気や怪我や家庭の事情でやむなく無職、生活保護になっている人はむしろ無理しないで欲しいとう反面で、健常者の怠惰には懸念があります。
ここにも何度か書いてると思いますが、僕は兄が健常者でありながら怠惰の無職を続けていることが負担でなりません。
これは僕の兄というミクロの範囲だけではなく、この世の同じ状況の人すべてに言えます。
結局は個人の集合体が社会ですから。
無収入の人を養うということは結局誰かが負担してるのであって、それが税金なのか労働収入なのかは関係なく、ただただ無収入の人は何も負っていないということです。
経済の環にいる以上、自分だけ責任を放棄してよいなどということにはならない。
それができるのは無人島で衣食住インフラ何から何まですべてを自分でまかなえる人間だけだと思います。
日本は新自由主義の横行で、今や何でも「個人の自由」「嫌なことはやらなくていい」という個人主義が容認されるようになりました。
それどころか進んでそういったことを拡散してる無責任論者が増えています。
自由を求めた結果、では今はそのとおりの最善に近づいてる世の中になっているのか。
それどころかむしろ逆の方向に行ってると思います。
もちろん死んでしまうほど嫌なことなんてやる必要はないし即断逃げるべきですが、バカらしいアホらしいだるいという理由ならそれは自由でもなんでもない責任放棄です。
僕は歴史が好きなので思うのですが、この国が統治されて文明開化に至るのにどれだけの人間が散っていったのか、戦争(それが間違った行為だったにせよ)に行った人間は誰のために散ったのか。
その人間が今のような理由なき怠惰を目の当たりにしたらやりきれない気持ちになると思います。
あまつさえ最近は反出生主義を唱える人もいますが、この国の存続を拒否するということは結局、後輩の未来を考えない「今だけ、金だけ、自分だけ」の老害政治家と一緒です。
極論、誰かがやるからいいやという人は、一人なら周りがやるので存続できますが全員がその考えなら終わります。
まぁそうはならないのが人間社会なのですが、弱小なれど一人の人としてそのくらいの気概をもって生きなけれなならないと考えています。
こう書くとすごい右翼的で嫌な奴に思われますが、でも本音を語るとすれば一理あると思います。
ちなみに自分の思う愛国心というのは右左関係なく列島に対する愛着心のようなもので、どっちとかありません。
とはいえここに書いたところで、この世が1ミリも変わらないこと承知の上で、むしろこれは自分に言い聞かせてる部分が大きいのかもしれません。
書いてて思いました。
強引ですが、病む原因という伏線回収をするとしたら、こういったネガティブな要素をメディアや個人が拡散させて、それを真に受けてるからってことになりますね。
正直、自分のことで忙しく、見てられない人になればいいと思います。
あるいは、そういったネガティブ要素に引っ張られないレイヤーで利用するか、です。
ということでここ今年も本当にいろいろ考えさせられました。
むしろ未曾有の自体になったからこそ逆に人生の考えが改められたというのはありますが。
今年もあと少し、悔いのないように生きます。
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