昨日の天気とは打って変わって晴れました。
長々し仮暮らしの部屋からいざ鎌倉へ。じゃなくて文京区ですねw
面接いけました。えらい!
まぁかなりゆるい感じで行ったので、結果はどうなるかは分からないけど極めて丁寧に接しつつ、自分を出しながら話を進めてみた。
一時間半、どう思われたのか、どう思わせたのか、もう今は考えてない。
このくらいドライにやったほうが良いと思うんです。相手は感じのいい人だったな。
面接が終わって遅い昼食を東大赤門の前にあるインドカレーで済ます。
んーなんかありきたりというかコスパはあまり良くないw不も可もないという感じです。でもお腹空いてたから無我夢中で食べました。
こりゃ、、noteで支援してくれた方々にごちそうさまというべきで、おかげで心の余裕から昼食を外で済ますことができた。ありがとうございます!
しかし・・・
改めて外界を見ると思うのは、みんな偉すぎねーか、、いやマジで何で毎日こんな人混みを掻き分けて進めるんだ。そこのお前、顔色悪すぎじゃないか。
ってな感じです。
バカにしてるとかではなくて心底そう思った。世の人々は強すぎる。おれからすればみんな念能力者に見える。とても仕事が辛いという人もそうでない人も、よく平然とやってのけてるなぁと。
言わずもがな今の自分は超フラット状態。カレー作り以外でいうと週休6日くらいだ。そんなことを今年に入って続けていたものだから、たかだか電車に乗るという行為もすごく新鮮味がある。
不思議だ。昔は自分もここにいたのに。
みんな何を考えているのだろう。
この世界をどう思っているのか。
電車の中ではこんなくだらない疑問がずーっとループしていた。
週休6日といえば聞こえはいいけど、メシ付きのラマダンを続けているようなものだ。二人で何をするわけでもなく何かをしている日々・・・それはある意味で虚無の境地ともいえる。
ただそこにいる。まるで草木のように。
健全な方には絶対におすすめしない。というか意図的にできるようなものでもない。ただその時、その状況に対して、こういった時間を設ける必要があったということで、つまり人生のエラー時間だからだ。
精神と時の部屋のように外界にでたからといって何かがパワーアップしていることはなく、むしろパワーダウンを感じる。でも、別の何かを感じる。
がむしゃらに頑張ってきた数年から気付いて目を覚ましたような感覚になる。それは人間の自然な有り様だと思う。ニュートラル・フラット・虚無といったものに近いかもしれない。
人間はストレスフリーの生活をしばらく続けると、まさにこういった状況になる。もちろんいろんな不安や葛藤が途中で何度も襲ってきて、その先に心地いい健やかな諦め(実際は諦めでなく理解のようなもの)がある。
生きるということについてもよく考えるようになった。
途中までレール路線で来た自分は、脱線するまでずーっと「カネがなければ死あるのみ」だと考えてきた。けどそれは違っていた。確かにカネは大事なツールではあるし、ときにそれは身を護ることにさえつながるものだ。
だが「死」は言い過ぎた。
少なくとも肉体ではなく、必死に追っても追っても手に届かないカネを追うことで、心の死が早まることはある。
僕にとっては肉体の死よりずっと怖いものかもしれない。
人間に生きていく理由などはあまり求めるべきではない。生きてるということは意識があってそれは無条件に楽しいと思えること。その中で仕事が辛くて生きるのも辛くなった場合は、前提の楽しい条件に反しているから無理する必要などない。
バランスが取れなければそれはもう末期まできてると考えていい。
精神の崩壊や心の死は事実上の死に直結する。
だから極度に辛いことはフィジカル面で死ぬことだと思う。だからやめる。
心のエネルギーが補充されてきたら、次に考えることは思考枠を広げてもっとやりやすいような環境を模索する。しかも自分基準でいい。
そうすると、本当にやりたくないことはリストから自然削除されていく。
よくあるのが、「あぁ何となく決めてしまった。でも何か違うんだよな。でも断るのも悪いし行くだけ行こう。」という考えだ。この場合は、でも何か違うという意識を最優先にする。
それは本音であり最適解だと思う。実際そういった乗り気じゃないものにいくと大抵が後悔に終わる。でもというのは自分に言い聞かせてるだけにすぎない。
僕は俗に言う「断れない人」の典型例で、引き受けたあとからだるさを感じてくる。でも受けた限りはやらなきゃと思い、やる→身が入ってない→出来が悪い→叱られる→「なら頼むな」と逆ギレしてしまう。
もちろん自主的に引き受けたいときもあるから、そういうときはきちんとやるけど。
ただこれは断れない自分が悪いし、断れないから余計に面倒な話になってくる。この5ヶ月間の精神と時の部屋の訓練お題は「断る」「意志を明示する」「自分基準」というかなり当たり前なことだった。
5ヶ月たった今、わりと動じなくなってきたように思う。
修行法はよくわからないけど、自分の場合は本読んでアウトプットのみ。本音を言う努力、あとは何も考えないで気軽に過ごす。それこそ、誰かは見ているであろうブログも見ていないこととして書く。
まぁ何を書いているかよくわからない部分も多々あるけど、やはり人に何か触発されるよりも自問自答する時間はかなり大事だということかな。
重症のときは人が何を言おうがカネがなくなろうが無関係に動けなくなる。(それは本当の病気かもしれない)
逆の方法でいろんな人と会って治す方法もあるけど、今回は多分己の方だった(笑)というか己率がのほうが高い。だって自分の人生は最終的に自分でしか決められませんからね。
人療法はあくまで、バラエティに富んだ「閃き」や「きっかけ」要素のほうが高いだろう。
何の話だったか、、(笑)
こういうのはよくあるんだけど気にないことにした。
それでは!
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