このご時世において幸せってのはナンなんだろう。
そんな疑問をざっくり書いていこうと思います。
Naughty Boy – La La La ft. Sam Smith
今日の一曲はこんな感じに少し意味深な感じで。
あー少し肩の力を抜いていこうと思ってるけどどうもうまくいかないもんだ。
とりあえずあと2ヶ月もしないうちに僕は30歳になる。
で、20代振り返ってどうだったの?ってことなんだけど、結局何も出来てなくない?と思っている。
確かに20代前半は活発に何かをしていた気がするけど、反面あまり将来のことなんて考えていなかった(笑)やったことと言ったら単純にブラックへ就職して脱落して引きこもって開業して失敗してみたいなそんな感じだろう。
そして後半になるにつれどんどん生活水準も落ちてきて、今は高校生以下の生活なわけだ。
いや、むしろ税金と家賃があるぶん高校生より酷いかもしれない(笑)
ただこの歳になってごく当たり前のコトに気づいてしまった。それは明確な価値基準の設定がなければずるずると他人の価値観にとらわれて生きることになるということ。
僕はこのブログのタイトルからもお察し頂ける通り、ドロップアウトして生活水準を限りなくミニマルにしていこうと考えてます。ただその定義は限りなくわがままなメニューなため実現できるかどうかはわからない。
ドロップアウトについて
- 生活のための仕事はするが、金儲けのためにはしない
- 自分の中で最高の価値観を”自由な時間”というカテゴリーにおく
- 必要なスキルを得るためには仕事や勉強もいとわない
- 世間の老朽化した常識を断舎離する
ミニマルな生活について
- 必要最低限のモノしか持たない(世間の広告やCMを追従しない)
- 必要最低限のモノを工夫して使うことで本来失うべきお金を浮かす
- 日常生活の中で幸せだなと思うような環境に身をおく
一応定義づけてはいるんだけど、まぁこれもあくまで指標みたいなものだし、実際この通りにいけばそんな幸せなことはないんだけど…
当初これらを実現するとなると、おそらく独身でなければ不可能に近いだろうと考えたが、それは納得出来ないというのが最強のわがままだと思う。
だって一定の生活水準満たさないと異性とも一緒にいれないの?
これには正直、は?って思ってしまう。
団塊たちが決めたここ50年くらいのルールはもはやアップデートが必要で現在のそれは過酷でしかない。
毎日必死に働き、少ない所得を稼ぎ出し、頑張ってローンでマイホーム買って、子育ても一流にこなす。まるでそれが人生の選択肢のすべてと言わんばかりに。
こちらの記事でも書いてますが、昔と今では情報の処理量が全然異なるし、きっと通勤しているだけでかなり美味しい恩恵を受けれたのは確かだと思う。
レールに沿った人生は確かに周りからの評価も高く、親も安心すると言った恩恵があるだろうけど。
しかし、僕の場合はこの一般的(既に一般的ではない)な難易度を選択した場合、充実した生活など永遠に無理ゲーとなってしまう。
今からノマドやフリーランスにジョブチェンジして、高所得を維持して軽井沢かなんかで自由なライフを満喫というのはきっと難しい。それにしては多くの時間を無為にすごしてしまった。
それにしても「ある程度」が連発されてるなぁ…ここでいうスキルはプログラミングやコミュ力や企画力といったことだ。これはサイトを充実させてSNSで拡散して、仲間や地元民を集めて、実際の収益に結びつけるといったことで必ず必要になってくる。
特に他の地域に行って何かを起こすということは、人的なリソースの確保や献身的な心構えが必至になってくる。そういったものは簡単に得れるものでなく、自身の信用という点にかかっているかもしれない。
少なくとも自営業をやった時に強く感じたのはそういったスキルのなさだった。
これからは団塊サラリーマンのようにひとつの能力や時代の恩恵に頼って生き残ることは非常に難しい。よっぽどのノウハウや才能が突出していれば別だが、現状ニートの僕にはまずコミュ力が必要だろうと思う(笑)
地方や田舎で生きる点において大事なのは、いかにノウハウや技術をお金に変えれるか、また逆にお金を使わずに知恵を使ってどこまで節約できるかという話だ。
都会でふつうに生活してると恐らく100%お金に依存した生き方になってしまう。忙しくて時間を優先したいからこそ便利なモノを買って、本来人がやらなくていいものをAIや機械に代用させることで時短を図る。
ホリエモン曰く、AIや機械を活用することで本来の人としての仕事に没頭できるという考えもあるけど…残念ながら、ふつうの人はすべてを代用できるほどの収入は期待できない。それはまだまだ先の話になるだろうと思う。
そして何より人間としての営みが代用させ過ぎることで味気のないものになってしまうんじゃないか。
僕は大学時代に社会実習で山奥に行って林業をしたことがある。その時一緒に行った後輩や友達は火の起こし方はおろかノコギリの使い方すら覚束ない様子だった。
これは知ってるから良いとか悪いの話ではなく、超スピードであらゆる技術が進化した今では本来人間が出来ていたことが出来なくなってきているということ。
一つの例だけどこういったことが一次産業(農業・林業・漁業)の衰退に繋がっているのは間違いないと思う。
- 第一次産業 - 農業、林業、水産業など、狩猟、採集。
- 第二次産業 - 製造業、建設業など、工業生産、加工業。電気・ガス・水道業
- 第三次産業 - 情報通信業、金融業、運輸業、小売業、サービス業など、非物質的な生産業、配分業。
Wikipediaより抜粋
一次産業は人間が生きていく上で確実に必要な『食』が絡んでいるので、こればかりは生存と切り離せないものだ。しかし、都心部にいると三次産業は何より重宝されていて、食べ物なんていうのはいくらでもあるような錯覚さえ生まれる。
別に時代を逆行したいわけではないけど、利点と欠点の住み分けをバランスよくしたほうがより良い人生を歩めるのではないかと思う。そういう意味でいうと都会というのは大分偏ってしまっているから、僕は田舎へ行こうと考えているんだけど…
最近は若い人でも率先して地方に移住している人が多い。もちろん確固たる目的がある人もいればチャレンジしてみようという人もいて、そういった取り組み自体が活性化するのは良い変化だと感じている。
ただ行った先にどんなことで貢献できるのか、またどうやって生計を立てていくのかっていうのは大きな課題だったりする。仕事を創造してコンテンツを充実させて目に見えるような発展(若手人材の増加や利益)がなければこの道もまた難しいと思う。
あともう一つ難関なのは家族や相手の理解だろう。最初からそういったことに興味のある人であればある程度スムーズに進むのかもしれないけど、まだまだ一般的な生き方が強い風潮ではこれが悩みのタネかもしれない。
僕が思うのは至極単純なことなんだけど、発展途上国でもみんな立派に生きてるからましてや日本でそこまで生命の危機にさらされることはないと考えている。様々なコミュニティーや制度を活用して、相互扶助すれば大概のことは補えると思う。
今はこういった人間関係が軽薄化してるけど、そうゆう点も含めて地域活性化に繋がれば一石二鳥じゃなかろうか。
こんなことを言うと子どもの教育はどうするんだ?という声が聞こえるけど、僕はそもそも教育というカテゴリーに明確な基準はないと思っている。いや、正確に言うと教育こそがその子の人生を豊かにするという保障はどこにもないし、そんな1+1=2のような単純な世界ではない。
こんな僕でさえ子どもの頃は習い事のオンパレードだったが、結局は理想通りになんてならなかった。むしろ変な反発が生まれて逆行さえしているかもしれない。だから子どもには何かを『やらせる』という上からなスタンスではなく、やりたいことを思うがままに成せる子であってほしいと思っている。
親はそういったことがやりやすいような環境作りに徹底すればいいのだ。まぁこれは会社でもいえることだけど、上司は部下が動きやすいように環境作りをすればいいと思う。
ぐだぐだな感じだけど、ひとまず備忘録も兼ねて書き出してみました。
ブログは毎度自分の文章力のなさに愕然とするけど、思ったことを書けるのは本当に素晴らしいツールだと思う。それでは。
お読み頂きありがとうございます。
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