ちょうど一ヶ月ぶりの更新になる。
一ヶ月間いろいろなことがあったけど、一瞬だったような気もする。
梅雨が始まったと思えば、もう明けて今度は灼熱の夏がやってきた。最近の気象予報はほとんどあてにならない。これは気象予報士がどうとかいう問題ではなく、そのくらい予期できない異常気象になってきているんだろう。
大学の頃から環境や資源のことを半分寝ながら学んでいたけど、2008年当時でもやれ氷山が溶けて海面が上昇する、枯渇資源がなくなるからメタンハイドレートやトウモロコシや水素を代用して燃料にできないか等々、、いろいろ言われていた。
しかし、もっと根源的なことを言ってしまえば、そもそも地球にガタが来てるのは言うまでもない。ちょうどこの頃から中国のGDPも急上昇してきた。
それに付随する環境汚染は著しく、異常気象を加速させる原因になった。なんといっても国土と人口は圧倒的だ。とはいえ、それは途上国が先進国になる過程で超えなければならないキャズムであって、日本も四大公害病が起きるくらい環境汚染をしてきた。
まぁ何もかもは『成長』という一言に尽きるのだろうけど、成長とは一体何なのか。たまにそんなことを思ったりする。
人間は他の動物と等しく地球環境に寄り添って、なるべく環境を破壊しないようそのサイクル内で生きていくのが望ましい。どんなに爆発的な成長を遂げても地球が爆発すればそんなものはまったく意味をなさない。
僕は小さくても持続や継続といったものこそが本当に価値の在るものじゃないかと思う。もちろん悪習は除いてよりよいと思われるものをできるだけ選択して決断していく。それが人間にできる普遍的な唯一なのかもしれない。
今こうしてる間にも、西日本では豪雨の災害から生存しようと必死に救助活動が続いている。テレビではオウム真理教の元教祖である麻原彰晃の死刑について言及していたけど、昔の録画VTRを見ながらコメンテーターが「一体何が目的だったのか」とわかりきったことを並べて興奮していた。
でも本当は過去の何度も放送された内容よりも今この瞬間が大事だ。
誰かが今この瞬間の積み重ねが未来を形成していると言っていたけど、たしかになと思う。それにしても日常というのは本当に隣り合わせに非日常があるのだと実感する。
なにか起こればそのあとにまたすぐ大きなことが起こる。そして起きたものはどんどん上書きされていく。そんなものの繰り返しだ。明日どっかの誰かに刺されて自分が死んでしまうことや災害で分からないまま土砂に巻き込まれて息絶える。これは日常とは呼べない、非日常が常態化したものが日常になっている。
僕たち生き物にとって、まったくの安定と平和などというのものは生きている限り永遠にはこないだろう。
そして、もうそういう異常の常態化(変化)を受け入れて、霧のなか進むことを当然の如く考えて生きていくのが良いと思う。そしてそれを拒否しない。少しでも楽しみながら半歩でも進んでいく。
そうすることによって、人は環境に慣れていくことができる。それはそんな悪いことではない。
東日本震災があり、日常では暗雲の中をもがきながら生きて、何かをリスタートさせてわずかな光明が見えたと思ったら、それはまたさらなる窮地の始まりで、そうこうしてるうちに今度は父が倒れた。
矢継ぎ早に目まぐるしく変化していくなかで、相当多くの負荷を体験したに違いない。だから、正直にいえば次はお前の番だと運命に言われても、「分かりました、ただ抗いますよ」というだけだ。
お構いなしに社会や身の回りが変化していくのだから、そういった覚悟をもって生きないと常に脳内は悩みと不安で埋め尽くされる。それでは遊戯三昧とはいえない人生になってしまう。
毎日を毎日と思わずに今日この瞬間を頑張ろうというのは、よく自己啓発なんかでも言われるけど、誰かに言われるよりも自己体験のなかでの気づきこそが本当の自己啓発なのではないのかと思う。
店の営業時間をどうしょー、と少し考えてるのだけど、まぁ土曜日は僕たちだけでランチ営業をすれば少しは気が軽くなるかな。そして車を売却する前に、相方の両親に初対面すべく新潟へラストランしようかなーって。
どの家族にだっていつ何があるか分からないのだから、、そう考えると思いついたことやアイディアはなるべく迅速に行動に移すべきだという至極当然のことにようやく気付いた。
ちなみに現段階で今自分にできることは、偽善かもしれないけど多分こんなことしかない。
クラウドファンディングでの支援プロジェクトを転載しておきます。
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