労働者と無職の境地



今日は外の雨音で10時に目が覚めた。

基本的に仕事の翌日が休みの日は目覚ましをかけずに寝る。

目覚ましとか通知音や着信履歴なんてのはタスクであって邪魔なだけだから。

そういうのに縛られずに済むのは週に2日だけだ。と言ってもまた一週間が始まることを考えると残りの5日、

それが続く半永久的な時間がとても暇で退屈なもののように思える。

それから起きてウーバーイーツを眺めて適当に食べたいものを選び、ノンフィクションまでバナナ一本で耐えた。

それまでどうにか気を紛らわそうとiosのGTA(グランド・セフト・オート)をやっていた。

最近こればかりやってるから、昔クリアできなかったミッションが豆腐を割くようにクリアできる。

ほどなく配達員さんがきて、それを頂きながらノンフィクションを観た。

やはりこの感覚だ。


phaさんを知ってから3年くらいになるだろうか。

初めて観たのはユーチューブでのTV録画で、ちょうど自分の立てた仕事が行き詰まり、

もう営業する気にもならなくうなだれてた時期だったと思う。

人間は不思議にも同色を求めて旅するとだいたい同じような道筋にたどり着くことが多い。

ハッシュタグで言えば #無職 #引きこもり #働きたくない のようなものだろう。

社会でも居場所をなくし、自分で事業を起こしても失敗し、金もツテも何もない。

ただ3年も経つとこうなった結果に対しての決着のようなものは一通りついてて、結局は無力と無知の答えだったのだと気づく。

自分は何かができると思い奮起しても、分かったことはただの凡人以下だったということ。

でもその答えは決して悪いものだけを生んだわけではないと思っているし、むしろ経験値としては良かったのかもしれない。

ノンフィクションのギークハウスのなかで、今回は似非原さんという実は超行動的で多彩な能力を持つのにそれが社会と結び付けられない人にフォーカスが当たっていた。

彼も表面的には仕事が続かないニートと一括にされそうだが、彼と同じことをできる人は彼しかいないだろう。

それは技術的にではなく、創作的に。

ただ、それをマネタイズすることや人からの評価に直結できないだけで。

作中では自分は飽き性で、自分の作ったものに対してあまり見返りなどは必要としてない、というようなことを言ってたけど、僕から見ればそれは本音のように思えた。

というかそれが創作の本質であり、基本的には自己完結だからだ。

そこに商業的価値を付けるのは他人であり、何もそれにそぐわないからといって当人に能力がないなんてのはおこがましいことだなぁと思う。

だからこそ関わっていて面白いと、生ける創作家のようだなぁと、おそらくphaさんはそう思ってたんじゃないだろうか。

中途半端に終わろうが、途中で計画がポシャっても、まぁそんな感じでいい。

それが、きっと3年前の自分にとっては救いの対象になったのだろう。

ただ、今現在でも普遍的に『労働』『自由』『人生』ってのは考えている。

この一つのうち、労働はかなり厄介で人の時間を5日間も拘束する力を持ってるだけには留まらず、何かをする意思を奪ってくる。

そして一つの言い訳が誕生する。

「毎日働いてんだからこれ以上何しろっての、、もうこれだけで精一杯なんだから」

こうして労働者の多くは思考停止に陥ってく。

仮に今の仕事を辞めて3年がかりで作った何かが、それ以上の収益を生んだとしても、それを考える暇もなく目の前の労働に追われる。

つまり、労働とは先にある可能性を奪うと言ってもいいかもしれない。

僕も含めてだいたいの多くはどうやって稼ごうか、どうやって生きていこうかって悩みは尽きないんじゃないだろうか。

だから何かを作るにしても商業的価値を考えなければならなくなってしまう。

当然、生み出すまでには時間も金もかかるから、それこそギークハウスのような場所に居候するか、まとまったお金がないと自由な時間を得ることさえ厳しい。

まぁこれは裏返しになるけど、だから人は働くんだろうなと思う。

むしろその大きな潮流に身を任せるほうが利益率はどうあれ手っ取り早いからだ。

おまけに社会的地位と信用なんてものもセットで着いてくるし。


ただ、一方で人は自由であれど、資本主義下においてその主張には限界があるとも考えている。

ギークハウスの住人は一見してゲームをやってダラダラしてる光景が映されているけど、実際は漫画家や物書き、プログラマーやイラストレーターとして収入源を確立してる人もいるだろう。

その人たちはたとえ社会的にどうであれ、自分のやることをやって、何かを追求している。

それが実を結んで収益となり物語となり、同じ思いを持った若い同士が集ってくるわけで、何もしない無職(生活費も他力本願)とは根本的に違うってことだ。

なんだかんだ言ってお金に背を向けても、結局はないと生きていけない世界に生まれてしまった以上、方法はどうあれそこに向けて何もしないというのは、どうなんだろうかと思う。

確かに日本人は嫉妬心のあまり、苦労してない(苦労してるように見えない)人を必要以上に叩きたがる性癖はあるにせよ。

だからといって反対に労働者は、嫌なら辞めればいいという単純な理論ではない。


まぁもっともこれは自分がニートと労働者と経営者をループして複雑化したことによる思考だけど、辛くとも社会的責任とやらを背負って生きてる人を無碍にはできないだろう。

インフラや物流、あらゆる恩恵の上に成り立ってるのはこの国の人間であれば皆等しく同じだからだ。

3年前はおもいっきりニートや無宿人のドキュメンタリーやブログを読み漁り、今は社会的なほうへ再び戻ってきた感がある。

ただ自営なのでサラリーマンとは違って少し変わった視点で社会を捉えてるけど、本当は両者に隔たりなんてないように思う。

実際、社会人という括りもイマイチよくわからないし、どうせそういうクラスタ分けをして五十歩百歩の優劣をつけたいだけなんじゃないかと。

どうも社会は身分というものを二分化したがるけど、本当はどっちも経験したほうがいいというのが個人的な見解。

無職側、労働者側はできれば正社員で。

人は見たことのない世界観に対してストレスを感じるから無職の世界(分からないもの)を叩きたくなるわけであって、、それは逆も然りだと思う。

もっと真ん中でいこうよと思うんだけど、なかなかそうはいかないらしい。

それにしても久々にゆるく生きていく、みたいな世界感に触れて今日は心が和んだな。

労働してると頭がそっち寄りになっていくからたまにはphaさんのエネルギー(倦怠感)をもらわなきゃなぁと。

来週も楽しみ。

タイピングが鈍るのでとりあえず書いてみました。

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ABOUTこの記事をかいた人

新卒でブラック企業入社を皮切りに転職、倒産、結婚、離婚、開業等々、現在は都内で飲食店やりながらブログ書いたりしてます。相方と月収20万でミニマルな生活を計画中・・・>詳細はコチラ